Birthed in tokyo japan by an ambitious and unique group of individuals, bgu is a magazine promoting feminism, the lgbt movement, and self-love. 

 検索:繋がり

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 イラスト: Jacques Merle  作

イラスト: Jacques Merle  作

自分がどのゲイのカテゴリーなのかを判定してくれるBuzzFeedの診断クイズに影響され、僕はクィアのアイデンティティについて自分の考えを書いてみようと思った。

その診断クイズは僕の受け攻めの好み, 体格, 体毛の量, 男性の好みのタイプなどを聞いてきた。考慮すべき項目、そしてそれによって出て来える答えの多さに、思いがけないほど多くの変数が混じった方程式を解いているかのような気分になった。若い頃は、xとvくらいの変数しかないと想像していた。しかし、年を取るにつれてu (体毛), z (体型)をはじめとした、答えのyへと辿り着くまでに必要なほかの変数の存在が次々と露わになっていき、やがて現在の複雑な方程式へと形を変えていった。例えばそこにはX=年下、R=年上、U= 体毛が濃い、Z= 体毛が薄い、I= タチ、O=ネコ、V= リバ、S=マゾ、D= サド、M= マッチョ、T= ガリ、A=年齢を利用した(A2-A1)=年齢の差、F= 性行為の頻度、などがある。最終的に僕は自分のIdentity Y = 2R + Z +V+0.25O+1/2S +1/2D+T+5A(28-23)+0.2F という方程式へと辿り着いた。そして、この答えによって僕は自分の身のこなし方、どんなゲイでいるべきかを定められる。LGBTのコミュニティーの中での自分の立ち位置が分かる。明快な、型に嵌まった立ち位置が。

  僕は自分の身のこなし方、どんなゲイでいるべきかを定められる。LGBTのコミュニティーの中での自分の立ち位置が分かる。明快な、型に嵌まった立ち位置が。

僕は自分の身のこなし方、どんなゲイでいるべきかを定められる。LGBTのコミュニティーの中での自分の立ち位置が分かる。明快な、型に嵌まった立ち位置が。

結局納得がいくような結果は1度も出なかった。もちろん、こういうクイズは暇つぶし目的ぐらいにしか作られていないのは分かっている。でも僕のモヤモヤはこのクイズの範疇に納まるものではない。僕はどの既存のクィアのタイプにもぴったり当てはまる感じはしないし、あてがわれたレッテルが充分かつ正確に自分のことを形容しきれているとも思えない。シンプルなゲイというカテゴリーに対してさえそう感じている。この与えられたアイデンティティは僕が誰であるかを説明しきれていないが、僕がどいういう人なのかということを知りたい人にとってはそれで充分なのかもしれない。こういうカテゴリーは現代社会にとっては必要なのかもしれない。 ただ、こういう人々のカテゴリー化も行き過ぎると、他者のたった一部分によってその人のすべてを判断し、理解した気になってしまう。そして、そのたった一部分であるあらすじが不十分なとき、本文に目を向けることなくあらすじをどんどん長くしていこうとする。こんなカテゴリー化は一体どこで止まるのか。いつになったら社会はこのプロセスから脱却し、個人個人に貼られたレッテルを取り除くことができるのか。そもそもそんなことはできるのか。

先ほど変数として羅列したような「振舞い方の規定」は、僕たちのセクシュアリティーが自分たちに内在するものではなく、自分たちが日々演出すべきものであることに繋がる。僕は一人の人間として朝起きるが、その後自分の嗜好に基づいてイケメン、ベア系、ガチムチなどといった、人々を理解しようとするより、単純化しようと社会が決めつけた規定に導かれた、制限されたキャラクターを体現する。そんな社会によってあてがわれたレッテルは自分のものとは思えないし、それによって自分のアイデンティティーさえも自分のものでないかのように思える。そんな、自分も他者もアイデンティティが単なるステレオタイプの模倣となってしまっている状況の中で、お互いに繋がりを感じにくくなってきているのは驚くべきことではないのかもしれない。

  こんなカテゴリー化は一体どこで止まるのか。いつになったら社会はこのプロセスから脱却し、個人個人に貼られたレッテルを取り除くことができるのか。そもそもそんなことはできるのか。

こんなカテゴリー化は一体どこで止まるのか。いつになったら社会はこのプロセスから脱却し、個人個人に貼られたレッテルを取り除くことができるのか。そもそもそんなことはできるのか。

出会い系アプリの広がりがこの現象を促進、増強しているのかもしれない。アプリに登録する時もまた、タチ、ネコ、ベア系、イモ系 、狼系、イケメン、ガチムチなど、自分がどのタイプのゲイなのかを選択しなければならない。現実世界ではお互い時間をかけて交流することによってこのような選択したタイプの先にあるその人の本当の姿を知れるが、ネット上では選択したタイプこそが自分自身のアイデンティティである。また、自分もそのアイデンティティに見合った振舞いを目指そうとする上に、自分の欲求に合うタイプを探そうとする。僕は自分のその時の気分や好みによってタイプから人を検索し、また僕がたまたま誰かの探しているタイプだったらその人から連絡がくる。さらには、課金をすれば自分の好きなタイプの男性のみ表示される様に設定できる。そしてマッチングした2人は、互いにその先にある人間同士の深い繋がりには目を向けずに自分の欲求を満たそうとする。

与えられたゲイのタイプにより、どの様な人を好きになるべきかも決められている様に思える。ベア系、イモ系 、狼系、イケメン、ガチムチなどのゲイの複雑なタイプ分けの基本にはネコかタチ(受けか攻め)かというタイプ分けがある。同性愛カップルが異性愛カップルの習慣を模倣するというのは聞きなれたことなのかもしれないが、いまだにそれはアプリを通しての出会いの基盤にあるようだ。上手くいっている2人なのに、どちらも受け又はどちらも攻めということを知って、関係が終わってしまったという話は何度も聞いたことがある。こういうアプリはそんなすれ違いを避けるべく、異性愛的な受け、攻めという概念を強調し、時にはどちらかを選ぶことを強いてくる。ネット社会の真っただ中に生まれたから想像することしかできないが、昔は受け、攻めという考え方もここまで両分化されていなかったかのように思える。もしかしたら肉体関係を持つ前に相手のことを知り、親しくなるという自然な順序を踏んでいたから、互いの相容れない性交時の好みを乗り越え、現代忘れ去られた、より精神的、肉体的な繋がりを築けていたのかも知れない。出会い系アプリでは、ネコとタチはパートナー探しの上で重要な基準であり、合わない人はもとから選択肢から排除されている。アプリは繋がりのチャンスを作るよりも逃しているように見えるが、親密な関係を築くことと引き換えに、時間を節約し、今までになく効率よく満足感を得られることを可能にしている。

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この効率の良さが同性愛コミュニティの孤独感の原因なのではないかと思うことがある。少なくとも自分にとってはそうだと言える。簡単に新しい人と話したり会ったりすることができる裏腹に、自分のアイデンティティを演出している現状により、人との繋がりを作れていない気がする。精神分析者のエーリヒ・フロムは1956年に出版した「The art of Loving」で、生まれた瞬間から死ぬまで人は愛や繋がりを求め孤独から抜け出そうとしていると唱えた。しかし、与えられたキャラクターを演じきった後、肉体的満足感を得られた後、僕は自分がさらに孤独になっていることに気が付く。結局は人工的なキャラクター同士の交流しか成し遂げることはできていない。お互いの体は可能な限り近くにあったのに、本当の触れ合いは手に入れられていない。単に自分の満たしたいファンタジーに合うカテゴリーから自分のパートナーを探し、決まりきった起承転結を経て、肉体的な満足を得た。ラテン系、アジア系、生、3P、青姦。そんなカテゴリーは次の相手を探すために再利用されるだろう。現実世界でのAVとも言えようか。僕たちは、体を商品化しアイデンティティを取り去ることによって、幻想の中に現実を押し込んでしまう消費サイクルを作り上げた。しかし、AVとは違い、自分のカテゴリー化、演出は幻滅や不満でしか終わらない。結局は、本来の自分は理解されず、孤独であることには変わりはないのだ。

訳)津田ミリアム、杉山大悟

始まりの日

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ヒル女の一夜

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